雨音と川
土砂降りと表すには役不足な13時だった。連日の黄砂で汚れた助手席の窓は水を弾かず、だらしなく伝う水流を目でなぞる。バケツをひっくり返したようなとよく例えるが、バケツなら一瞬で終わるのに、この雨は飽きもせず一時間以上続いているらしい。
「コンビニ寄っていい?トイレ行きたい」
「ええよ、あたしカフェオレね。砂糖不使用のやつ」
赤信号中、達也が左手で方向指示器を下に倒す。初任給からコツコツ貯めて買ったという割には手入れの行き届いていないハイラックスサーフ。詰めの甘さが目についてしまうのは、彼より数年長生きしているからだろうか。漫画みたいにウヒャーと声をあげながら自動ドアに飲み込まれる背中は、もうあんなに大きいのに。
祖母が亡くなった。今朝6時に母親から連絡がきて、新幹線に飛び乗ったのが8時28分。「そろそろばあちゃん危ないかも」と一昨日聞いていたから、一応念のため、喪服とパンプスをクローゼットの手前に出しておいた。ばあちゃんには悪いが、亡くなられる方にも段取りが必要なんだ。
「ごめん砂糖ないのなかった」
濡れたブラックコーヒーは結露だか雨だかわからないが、彼の選択は間違っていない。こういう細かいところは気が利く癖に、デリカシーのないことをパッと口にするからモテないんだろう。年々父親に似てきている。
姉弟、あんまり似ていないね、とよく言われる。それはそうだ。こんな弟と一緒にされてはたまらない。30を越しても地元を出たこともなく、保育園からの友人達と「地元最強!」なんてSNSにあげるような人とは違うのだ。実家を出ていることがエライわけではないけれど、それでも、東京で10年以上独り暮らしをしていることは履歴書に書いてもいいくらいの実績だと思う。わが弟ながら、なんでもっと大きな世界を見ないんだろうと、純粋な疑問を抱き続けていることは誰にも言えていない。
「ばあちゃん、もう家に帰っとるの」
「12時頃に帰ったよ。博美伯母さんが来てくれたけ一緒に帰っとる」
8年ぶりのわが家に無言の帰宅とは皮肉なことだ。痴呆で暴言を吐き、夜中に階段で転んで入院して、同じことを何度も話す。そんな変わり果てた祖母を施設に入居させる際、母は「ごめんな」と私たち姉弟に向けて言った。私は当時すでに実家を出ていたし、なんでそんなことを言うのか皆目見当もつかなかった。疲労で瘦せ細り、介助に失敗して骨折し、行政にたらい回しにされる姿を見ていたから、むしろもっと早く、とさえ思った。祖母の「自宅で死にたい」という言葉を馬鹿正直に受け止めていたのか、母の実母へのエゴなのか、これから見る母の顔でわかるだろうか。私は長女であるくせに、危篤の連絡を受けても喪服の用意をしただけだった。その時に新幹線に飛び乗っていれば祖母の最後を見届けられたのだろうか。落ち込む母の背中をさするくらいした方がよかったのだろうか。たらればでまとまらない思考と一定のリズムを刻む雨音の中で、まぁ、そんなことしなくても、と、仕事の算段と祖母の死を天秤にかけている自分にゾッとする。形容しがたい不快感を上書きするようにぬるくなったコーヒーをすすった。
「この後葬儀社さん来て打ち合わせするんと。母さんが俺らも同席してほしいって」
「うちらすることあるん?」
「どうじゃろ、遺影の写真選んでって言いよったけど。ばあちゃん写真あるんかな。…うわ、ぶち水増えとる」
大雨の時に道路脇の川を見て「水が増えている」と言う。父親と全く同じでうんざりする。大雨なんだからダムは放流するし、言われなくても勝手に増える。どうしてわかりきっていること、見ればわかることをわざわざ口にするのか。そういえば母も言っていた気がする。川の近くに住む人間の性なのか。相変わらず窓の水滴は不規則に踊る。
駅のロータリーから10分、山側の道路脇には自由に背を伸ばす雑草たちが幅を利かす、国道と言うよりも酷道の方が相応しいような寂れた道を、これもまた似合わない黒のサーフが走る。私はうっかり雑草たちに同情する。そりゃそうだよな、こんな辺鄙なところで誰に世話をしてもらうでもなく、こんな大雨にひたすら打たれて項垂れて。置かれた場所で咲きなさいなんてあまりにも酷で無責任な話だ。なんだかアスファルト砂漠の息苦しい都会に似ている気がする。妙に自慢げに揺れる雑草にも名前があるらしい。誰が認知しているかというのは別の話だが。
「あ、ごめん、ストッキング忘れたけドラスト寄って」
「えぇ、もうちょいはよ言いや。ファミマじゃいけんのん」
「ごめんて言るいいよるじゃろ、ファミマでええよ」
実家まで最後のコンビニに駆け込むと、異常なまでに冷えている店内に思わず身震いした。
私は祖母の顔を見て泣けるのだろうか。そもそも8年も会っていない人に対して、孫という続柄を名乗ってもいいものだろうか。真希ちゃん、と呼んでくれたのはもうとうの昔で、死に対して真っ先に悲しめない身内に価値はあるのだろうか。母にどんな顔をすればいいのだろうか。祖母譲りの福耳には、母が成人祝いにプレゼントしてくれた真珠のピアスが光っている。死は意外にも何も教えてくれない。
ネイル、来週あたり予約しなきゃ。四十九日までにはもう一回できるだろうけど、喪に服してますって感じのワンカラーにしようかな。40デニールのストッキングは薄かったかな。ハンカチはお母さんに借りよう。博美伯母さん苦手なんだよな。
達也に紙パックのリンゴジュースと電子タバコを一カートン渡す。水滴を掻いくぐり見つめる川の水は、いつもよりずっと増えていた。
