ヒト

無くなった彼に対して

kns_bako

 朝の地下街は喋らない。誰もが皆きちんと前を向いて、満員電車で汚れた革靴とパンプスをかき鳴らして、放射状に延びる出口に間違いなく進んでいる。まるで歩くエレベーターみたいだ。このエレベーターは誰か一人でもしゃべってしまったら、とたんに秩序が崩壊して、テロと見間違うような事件でも起きてしまうのだろうか。

 ちょっと、おい、大丈夫か?くたびれたレオパード柄のバレエシューズをじっと見つめていたら、警備員風の服を着た男に覗き込まれた。話しかけてきたわけだけど、おい、なんてだいぶ失礼じゃないか。腹の突き出た男は見るからに気弱そうで、男が自発的に職務を全うしようとしている訳ではないのは明らかだった。

 あぁ、ちょっと、彼氏が死んだンすよ。にへら、と擬音が付きそうな程、右の口角を吊り上げて答える。え、あぁ、それは、お気の毒に。お気の毒に、だって。関東人かよ。白いタオルでひっきりなしに汗を拭いながら男はモゴモゴとしゃべっている。気に入っていたパンプスだけど、紫だった部分は昨晩の水溜まりに疲れて形容しがたい色になってしまっている。帰ったら捨てよう。とかくこんなところで酒を飲むなと言いたいらしい男は、私が立ち上がると同時にビクリと体を震わせた。てめぇが帰れって言ったから立ち上がったのに。ため息の一つぐらい許されるだろう。まだ百貨店の開店時間には遠い。

 二日ぶりに帰った家は生憎何も変わっていなかった。ひどく崩れた化粧と脂でボリュームを無くした髪が映る鏡。2時間かけた化粧も、20分かけて巻いた髪も、このザマだ。湯船の蛇口を開いて電子タバコの電源をつける。マクドで充電できてよかった。スマホと2つのアイコス。これさえあれば、パンツがどれだけ臭くなってもなんとか生きていける気がするし、そのくらいたくましくもか弱くありたい。煙草と香水と汗を脱ぎ捨て、そのままの勢いで、ざぶん、と頭の先からつま先まで湯船に飛び込んだ。

 スマホが鳴って目が覚めたのは21時が過ぎた時だった。髪も乾かさずに寝てしまったらしいが、パンツだけはしっかり身に着けていた。電子タバコの起動を待つ間に、近所の居酒屋に来ないかと誘われている文面に返信する。寝ていたというか気絶していた間にも時間は過ぎていたらしい。なんというか、頼みもしていないのにご丁寧なことだ。

 夢から現実に戻る瞬間が一番嫌いだ。煙草の味で目が覚めるのを合図に、吐き出す煙が薄れていくほど私が襲ってくる。電子タバコにつけたキーホルダーがガチャガチャと鳴ると、それはイタコの数珠のように私を包む。一種のトランス状態なのかもしれない。二口目の煙草が世界で一番嫌いだ。

 インスタ見たけど別れたん?と、ベリーショートの女は不躾に言う。こういうところが品がなくて嫌いだ。既読にならんから多分死んどるわ。ゴシューショーサマやね、と女はたこわさをつつく。興味がないくせに聞くだけ聞くところも嫌いだ。何も言わずとも目の前に届く生ビールをあおると、少し残っていたアルコールに胃が痙攣しかけた。死んだんやったらしゃーないな、と女が改めて言う。指からこぼれた枝豆の房が紫だったパンプスに着地する。一つため息をついた。

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藤沢 かなス
藤沢 かなス
元気なフリーター
5分で読めるSS、後腐れのないブログ、日常観察図鑑を書いています。
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