優れた女
そろそろお開きにしましょう、と言い出せる勇気と行動力が社会人には必要です。その言葉を聞いて、よかったやっと言ってくれた、と足早に姿を消す人も居れば、なんだよ白けるな、と見せつけるように煙草に火をつける人も居るでしょう。十畳程度の狭い空間で上司を歓迎する目的は二時間前に果たしていますから、わざわざ好き好んで滞在し続ける理由はありません。高級料理のように大皿にちょびっと乗ったさして美味しくもないお料理も、明らかに質の悪いアルコールも、もうたくさんなのです。彼が五日前に別の女のところに逃げてから五日、わたしにはすべて必要のない空間でした。
彼との話をする前に、この五日間のことを振り返りましょう。わたしは、勤めて冷静に毎日をこなしました。夜中に泣きながら女友達に電話することも、彼にもう一度連絡してみようかとスマホを一晩中握りしめることも、彼が部屋に残した荷物を海に放り投げること、いずれもしませんでした。負け惜しみではありませんが、できなかったのではありません。ただ、彼がいなくなっただけの五日間を過ごしていました。
ほかに好きな人がいるんだ、なんて少女漫画かドラマでしか見たことのないセリフを言う貴方に、わたしは少なからず笑っていたでしょう。そもそも、五年以上お付き合いをして、結婚のけの字も切り出せないような貴方に、隠し事ができるはずがないのです。それでもわたしは、わたしではない選択肢を選んだ貴方をきちんと軽蔑しました。言いたいことは山ほど、それもヒマラヤ級にありましたが、新しい恋に浮かれ切っている貴方には通じない電波でしょうから、わたしはじっと押し黙って、貴方の言葉を待ちました。貴方はやっぱり陳腐な言い訳を並べ、わたしはただ静かにカーディガンの裾の毛玉を床に落としていました。最後の最後までつまらない男です。そして、もごもごとまとまりのないノイズが切れたかと思えば、こちらに意見を求めてくるのです。これもしっかりあきれました。貴方が切り出した別れに対して、わたしが述べる意見などありません。結婚を夢見る女であることを知っている貴方は、わたしが泣きじゃくりながら、どこが悪かったの、直すから、ねぇおねがい、と肩を揺らして縋ることを期待していたのでしょう。どこまでも甘ったれた男です。わたしがあまりにも何も言わず、貴方が精いっぱい考えた謝罪と慰めの言葉を聞いているものだから、その動揺は明らかで、額の汗が表していました。言葉よりも生理現象の方が、よっぽど情報を伝えることができるのですから、目の前にいる男はただの木偶の坊しかあり得ません。案山子の方がより人のために良い仕事をすることでしょう。わたしが立ち上がると、男はビクリと震え、怯えた目でこちらを伺っています。こんなに興味がわかない人は、二年前に亡くなった父以来でした。
『別れは小さな死』とフランスのことわざにあります。わたしはとっくの昔に死んでいました。呆れるほど苦しみ、嘆き、そして死にました。いつのことだかはもう覚えていませんが、人の死のように、医者が死亡時刻を宣告するように、ある時から死を受け入れていました。それから、わたしは死を乗り越えた女優として、華々しいデヴューを飾りました。
ですが、わたしはとんだ大根役者だったようです。いえ、その前に、わたしを殺した犯人役があまりにも力不足でした。記念すべき初舞台を汚された悲しみと憎しみがわたしを襲いましたが、わたしも女優として脂の乗りきった時期を過ぎていたのかもしれません。大役を終えたわたしの千秋楽は、思ったよりも静かなものでした。
これが、わたしが過ごした五日間と、彼、正しくは彼氏だった男とのいきさつです。ぼんやりと駅までの道を歩いていると、後ろから二回、短く、クラクションを鳴らされました。わたしを追い越した真っ赤なアテンザは、先のロータリーをぐるりと回ってバス乗り場の後方に止まり、ハザードを焚いています。わたしは少しだけ足取りを早め、コートのポケットに突っ込んだ色付きリップクリームを二・三度、唇に滑らせました。
